tomoyanの遊びを考える HOMEへ戻る
 

■遊びから働きへ  詳細トップ (2011年2月6日)■花緑理論






   

 花緑理論を発展させて
 花と緑の環境を職員やボランティアや大人が一生懸命頑張れば、子ども達はだんだんに集まって来るようになる。すると子どもはケンカをするので、それを上手く仲裁したりしていれば、子どもの健全育成が出来るようになるというのが、私の花緑理論です。また、花と緑の環境作りの作業やお手伝いを子どもも参加するようにさせることが、子どもの今一歩の伸びにつながると私は思い、実践してきました。平島公園での12年に渡る緑化活動で、平島公園をきれいにすることが子どもの健全育成につながり、地域の仲間作りにつながることも証明されました。そこで6年前からは有明児童センターでも花緑理論を導入して、健全育成を実施してきました。最初の頃は子どもやお手伝いのボランティアさんに草取りや木の剪定を・清掃をさせたら、子どもは来なくなるとの主張もありました。ところが、逆に平成16年には総利用6万5千人位だったものが平成22年度は8万人になりそうです。何よりも小学生が親が迎えに来てもなかなか帰りたがらなくなってきました。このことは花緑理論の仮説が正しいことを証明していると私は考えています。
                

 遊び・学び・働きのバランス
 児童館・児童クラブは遊びを通しての健全育成が必要と言われています。この仮説根拠は児童臨床心理学における遊戯療法の考え方にあるのではないかと私は思っています。だとするならば、遊戯療法だけではなくて、作業療法・行動療法・運動療法・音楽療法・自然療法などなどいろいろな手法が児童臨床心理学の中にはあります。そこで児童館・児童クラブにおける療法を遊びだけに限定するのはおかしいのではないかと私は考えました。それが児童館・児童クラブにおける作業療法の展開についてです。この展開の中で児童館児童クラブにおける活動を遊びのみに限定しないで、他の療法も積極的に取り入れることの必要性を考えました。
 次に考えたことは、一般的に子どもを褒めて育てよとか言いますが、今の子どもを今のままで褒めることができるかとの疑問が私には発生しました。「よく学べ、よく遊べ」というのは昔の子どもはその背景でたくさん労働をしていて、貴重な労働力でもあったのです。それをベースにして、大人は子どもをたんに労働力としてみないで、学びと遊びを大切にすることが必要であるというのが「よく学べよく遊べ」の意味であると私は思います。昭和20年代30年代40年代の子ども達はよく働いていました。家庭でも働いていたし、学校でも薪ストーブの杉の葉拾いやトイレ清掃などもやっていました。「遊んでばかりいないでお手伝いをしなさい。」「勉強なんかどうでもよいから仕事をしなさい」と言われたものです。
 ところが昭和50年代になると「遊んでばかりいないで勉強しなさい」となりました。そして最近になり、昔とは違って意味で「遊びの教育的意味」等が主張されて、遊びが大切と言われ始めたのです。
 人生を考えてみると、遊び・学び・働きは適当なバランスを持っていることが必要です。そして今の子どもに一番欠けているのは働きではないかと私は思うようになりました。子どもであってもいろいろなお手伝いが出来ます。お手伝いをして、しっかりと働いてくれれば(金銭を稼ぐの意味ではない)褒める場面も出ると言うものです。今のお手伝いをしない・作業をしない子どもを、マラソン大会で頑張ったとか、算数で100点取ったとか言って褒めても図に乗るだけではないかと私は思うのです。
 そこで遊びと学びと働きのバランスをとることが大切と私は平成22年12月に主張し始めました。そして、現在の子どもが一番していないことはお手伝いや作業などの働きであると思うので、遊びを通しての健全育成ではなくて、働きを通しての健全育成とシンプルに子ども達と保護者に提案しました。
              
 この提案は思った以上に保護者に受け入れてもらえることが出来ました。保護者も「受容共感派」の子どもを受容して褒めてあげれば必ず子どもは成長するなどというまやかしを感じていたからのようです。
 遊び・学び・働きのバランスを考えた時に、まず学校は学びの場所でしょう。次に家庭は憩う場所で遊びの場所かもしれません。昭和30年代前後は家庭は労働の場所でした。風呂の水入れ・ご飯を炊く・下の子どもの面倒を見る・ゴミ捨て・清掃などなど働くことはたくさんありました。ところが今では電化が進み、家庭労働は減少して、両親の通勤時間が長くなり、疲れはてて帰って来てから、子どもと一緒に働く体験をするのは億劫なのが現状です。だとするならば、児童館児童クラブはある意味では「働く」に特化するのも良いのではないかと思うのです。

 最近の若者の変容と働き
 私が働きが大切と考え始めたことにはもう一つ最近の若者に変容を感じているからです。実習生などが来て、お客さんが来たので「お茶を出してください」と頼んでも、お茶は出すけれど、その後に片づけが出来ない人が多いのです。それは実習生だけではなくて、若い職員にも言えることです。働きの場合、一つの指示はいくつかの内容を含んでいます。「お茶を出してください」の意味は「お客さんにお茶を出すとともに、お客さんが一人で飲むのも飲みづらいだろうから私にも出してください。そしてお客さんが帰ったら、茶碗を片付けて、湯沸し室で洗い、乾燥機にかけて、乾いたらもとの場所に戻してください。お湯がないなら沸かしてください。やかんは片付けておいてください」との一回転する内容の指示である。ところが実習生や若い職員は「お茶を出せと言われてだけ」と居直ることが多いのです。
 働くということはいつも前の状況にきちんと戻して、再度また働く条件を作ることが必要です。そして一つの指示は一回転するいくつかの暗黙の指示が含まれているのです。このことが理解できないと職業人になることは出来ないのです。

 働きの意味
 人間は生きていくためには勤労の義務を果たすことが必要となります。勤労とは大人になってから身につけるだけではなくて、少なくとも保育園の年中児くらいかは少しでもお手伝いの習慣が出て来て、小学校・中学校では1日30分とか1時間くらいは働いて、高校や大学を卒業したら、8時間の労働・1時間の学び・1時間の遊びみたいなバランスになるのではないかと思います。このためにも小学生期においては、最低0,5時間の働き、1時間の遊び、4.5時間くらいの学びが必要となるでしょう。
              
 児童館児童クラブが遊びだけの施設と考えてみましょう。子どもはやってきて、30分くらいドミノ遊びをします。その後にローラースケートを30分くらい滑ります。図書室でマンガを30分読みます。そして1時間半とか2時間やっていると飽きてきて帰って行きます。1日80名の利用のある児童館があるとします。1日8時間の開館時間だとすると、平均滞在時間が2時間とすると、場面としては20名くらいの子どもしかいないことになります。20名くらいだと遊びも限定されるので、ますます滞在時間が短くなってしまいます。この悪循環で児童館には子ども来なくなってしまうのです。
 児童館児童クラブで遊びだけではなくて、働きや学びを入れてみます。するとやってきて、宿題や学習等をします。その後に30分くらい草取りなどをします。自由時間が10時半くらいから1時間半くらいあれば子どもは楽しく遊びます。そして昼食を食べ、昼食後のお手伝いの後片付けをして、映画を見たり、ローラースケートをしたりします。またおやつを食べて、折り紙を切るなどのお手伝いをします。また遊びます。こうすると、8時間以上居て、親が迎えに来てもまだ遊んでいたいと不満げな顔を子どもが出てきます。平均滞在時間は6時間以上となりますので80名の利用であるなら、60名以上の子どもが常に居ることになります。マンガ読み・ローラースケート・ドミノ遊び・将棋・オニム・カプラ・縄跳び・ドッジボール・サッカー・折り紙などなどたくさんの遊びの場面が提供されることになるので、子どもは楽しくてますますたくさんの子どもが来館することになるのです。つまり「働くこと」を児童館児童クラブに導入すれば、来館人数は確実に増加すると私は思います。有明児童センターで、私はずっと学童クラブという留守家庭児童のクラブとジュニアクラブとの4年生〜6年生のクラブを担当していました。基本的には留守家庭児童が多かったのですが、このクラブに入りたいと親に働いてくれと頼む子どもが多くなりました。私のクラブは働きと学びがあり、児童センター部分は遊びだけだったのです。結果的に子ども達は働くクラブを選んでいたのです。その後5年前からは全てのクラブと自由来館児童もを同じ方針(働き・学びを入れる)しました。結果的に利用者は増えることになりました。お試しあれ。

 働きにはぱなしがない
 遊びとか学びにはぱなしであることが必要となります。私は第2外国語がドイツ語でした。お情けで単位をもらえましたが、世界にドイツ語という言語があることを知っている程度です。まったくの学びぱなしです。遊びも一緒で将棋や囲碁はかじったにもいきません。マージャンは並べることが出来る程度です。でも学びとか遊びはある意味ではその程度のぱなしで良いのです。
 働きの場合はどうでしょうか?働きだけはぱなしではいけません。もちろんドイツ語のように自分に合わない仕事はやめて、別の仕事をすることが必要です。例えば私は運転が下手なので運送屋の運転手をやっていて、この仕事は自分にあわないと思ってので、運転手はやめました。でも教員とか児童厚生員になり、苦手な部門もありますが、やはりぱなしではなくてきちんとやる必要性があります。私はリズム感がないのでダンスが苦手です。でも乳幼児の集いでは先頭に立って、踊る必要性があるのです。ダンスの先生にはなれないけれど、児童厚生員として逃げることは出来ない程度のダンスはする必要性があるのです。これがぱなしではいけないとの意味だと私は思っています。
            
 ぱなしがないということは前記のように一つの言葉の裏にいくつかの内容があることを理解できる能力が必要とされるのです。それがある意味では人間である意味ではないかとも考えられます。上記の写真は2年前に新潟国体の「ガムシャラな風になれ」のダンスの練習風景です。この練習を斉木としやさんにお願いしたのですが、お願いしただけで後は全て斉木さんにお任せしました。働くとの意味はそうしたものだと私は思うからです。

 終わりに
 児童健全育成を遊びではなくて、働きを主としてやろうとの私の提案は突飛なことであると思う。しかしながら、私がずっと思っていたことでもある。子どもも大人も世の中に役立ってこそ生きている意味があるのではなかろうか。働くということはとても大切なことだと思う。今、この働くことにまだ日本人は大切だとの意識がある。この意識がある内に働きの活動を地域や児童館や児童クラブで始めることが必要である。

HOME   トピックス TOPへ戻る